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大阪高等裁判所 昭和63年(う)361号 判決 1993年1月22日

主文

原判決を破棄する。

本件を神戸地方裁判所に差し戻す。

理由

一控訴趣意と判断順序

1  本件控訴の趣意は、検察官丸谷日出男作成の控訴趣意書及び検察官小池洋司作成の控訴趣意書補正申立書に記載されたとおりであり、これに対する答弁は、弁護人古髙健司ほか同四六名連名作成の答弁書(なお、弁護人古髙健司作成の被告人氏名訂正申立書二通により被告人両名の氏名の訂正がなされた。)に記載されたとおりであるから、これらを引用する。

論旨は要するに、原判決は、本件各偽証罪の公訴事実につき被告人両名をいずれも無罪としたが、原審裁判所は、取調べ済みの関係証拠により各公訴事実を認定することができるのに、証拠の評価・判断を誤ったものであり、また、各公訴事実に沿う証言等の信用性を補強するなどのために検察官が取調べを請求した証人らにつき、いずれも請求を却下してその取調べをなさなかった点で証拠の取捨選択を誤ってもおり、これらの誤りの結果事実を誤認したものであって、その誤認が判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、破棄を免れない、というのである。

2  本件各公訴事実の概要は、原判決がその理由の冒頭で摘示するとおりであるが、要するに、甲山学園園長の被告人Aと同学園指導員の被告人Bとが、同学園児童のDが殺害された殺人被疑事件につき同学園保母のCを逮捕・勾留して捜査したことを違法であるとして提起された国家賠償請求事件の法廷で、証人として宣誓のうえ、D殺害当時のCのアリバイに関し、それぞれ自己の記憶に反して虚偽の陳述をし偽証した、というものである。偽証とされる各陳述の内容は、右殺害のあったとされる昭和四九年三月一九日午後八時ごろの前後約一時間ほどの間における出来事に関するものであり、被告人Aについては、甲山学園管理棟事務室と外部との間であった数個の電話の順序(公訴事実第一の一)、右電話の後にLからあった電話の時刻(同第一の二)に関する各証言が、被告人Bについては、同被告人の所在していた場所(同第二の一)、同被告人が園児の行方不明を聞き知った場所とその相手(同第二の二)に関する各証言が、それぞれ偽証であるとして問擬されている。

ところで、原判決は、被告人らの国賠訴訟における証言内容とその記憶との食い違いを「主観的虚偽性」と、証言内容と客観的な真実との食い違いを「客観的虚偽性」とそれぞれ名付け、本件各偽証罪の成否を問うには、客観的虚偽性、主観的虚偽性(及び偽証の犯意)の順に証拠判断を進めるのが相当であるとして、各公訴事実につき、まず検察官が客観的真実として主張する事実が証拠によって認められるか否かを判断したうえ、次いで被告人らが記憶に反して証言をしたか否かまた偽証の犯意があったか否かを判断している。右のような証拠判断の手法は相当として是認できると思料されるところ、所論も、右区分に従いつつ、客観的虚偽性、主観的虚偽性(及び偽証の犯意)の順に原判決の各個の判断を論難している。そこで、以下では項を改め、原判決の判断順序にならって論を進めることとし、まず被告人Aの国賠証言につき、客観的虚偽性を第二項(電話の順序)及び第三項(L電話の時刻)で、主観的虚偽性及び偽証の犯意を第四項で、次いで被告人Bの国賠証言につき、客観的虚偽性を第五項で、主観的虚偽性及び偽証の犯意を第六項で、それぞれ検討していくこととする。

二電話の順序(公訴事実第一の一)について

1  所論は、本件当夜の午後七時三〇分ごろから被告人Aが甲山学園管理棟事務室を出るまでの間の外部から同事務室への電話と同事務室から外部への電話の順序について、①E電話(CがEにかけたもの)、②F電話(CがFにかけたもの)、③G電話(Gからかかってきたもの)、④I電話(Hが大阪放送・Iにかけたもの)の順になることが客観的に動かし難い事実であり、この事実は、Hの捜査段階における供述を他の証拠によって認められる甲山学園の通話システム等に照らして検討することにより認定することができるのに、原判決はH供述及びこれを裏付けるHの手帳の評価を誤って、同供述の信用性を否定したもので、極めて恣意的な判断をしたことが明らかである、と主張する。あわせて所論は、原審裁判所は、検察官がG電話及びI電話の前後関係等を立証するために申請したG、I、J、Kの各証人尋問を全て却下し、その結果、「本件電話の順序に関する検察官の主張が客観的事実に符合すると断定するのは困難である」との誤った判断をなすに至ったもので、証拠の取捨選択を誤ったことが明らかである、とも主張する。

2  そこで、所論にかんがみ記録及び証拠物を調査して検討するのに、検察官主張の本件電話の順序については、Hの検察官に対する昭和四九年七月二日付供述調書中にこれに沿うと思われる供述部分が存し、また、同人の手帳(<押収番号略>)中には右供述部分と符合する記載が存することが認められる。原判決は、このH供述及びH手帳の記載を評価するにあたり、①H供述における、北山学園の回線を使用して通話していたから相手に北山学園の電話番号を教えた、という展開をそのまま肯定するのはやや軽率であること、②右展開に沿うと見られるH手帳の記載も、北山学園の電話番号を教示したという事実から逆に北山学園の回線で通話していたということをHが推理し、それを書き留めたものと解せる余地があること、さらに、③午後八時ごろにM電話があったことを知っていたHにおいて、同電話が甲山学園の回線を使用してなされたと考えたうえ、M電話にI電話が時間的に重なり合っていたのではないかと推理・推測した蓋然性も否定できず、H供述は、この推理・推測に基づく供述であるとの疑いが残ること、などの点を指摘して、H供述及びH手帳の記載に基づき検察官主張を肯認することは困難であるとの結論を導いている。

確かに、原判決が指摘する右諸点は、証拠の慎重な検討を経て導き出されたものとして、いずれも一概に否定し難いところではある。ことに、③の、I電話と重なり合った電話としてHはG電話でなく別のM電話を想定して供述した疑いが残る旨の指摘は、「事実関係を自己の主張に合わせて構成するという主観的傾向が見られる」とのHの性向に関する洞察に基づくものであるだけに、一応説得力がある。

しかしながら、他方、HがI電話で北山学園の電話番号を教示したことは動かし難い事実であると目し得るところ、北山学園の回線を使用していたためにそのような教示をしてしまったということは、それなりに自然な経緯であると理解でき、甲山学園の職員が北山学園の電話番号を教示するという特異な事態の説明として合理性がないとはいい難い。また、仮にM電話とI電話との時間的な重なり合いをHが推理・推測した可能性があるとしても、少なくともI電話の最中に外線のランプが点灯していたとの事実は、Hが自己の固有の記憶を喚起したため手帳に記載し検察官に供述したということは十分に考えられるところであり、これさえもHの推理による創作であるとするのはかえって行き過ぎた想像であるとの感も免れない。こうしてみると、H供述とH手帳は相まって、I電話の際に甲山学園の回線が点灯中であったこと、ひいてはI電話とG電話が時間的に重なり合っていたことを推認させる方向での有力な証拠というべきであり、原判決が信用性に疑いありということで結論的にその証拠価値を否定した点には疑問が残る。

3  ところで、Hは、本件各電話のうちE電話を除く他の電話に通話者として関わっており、各電話の順序を確定するうえで重要な人物であることは間違いないが、原判決も摘示するように「Cの無実を訴える一連の活動」を行っていたもので「事実関係を自己の主張に合わせて構成するという主観的傾向」の持ち主と認められる。原審裁判所は、各電話の通話の相手方を一名も証人として取り調べることなく、片方の通話者に過ぎずしかも右のような特殊性を有するHの、検察官調書とその作成手帳のみに焦点を当てて、各電話の順序を判断しようとしたものであって、判断資料の不十分さは蔽うべくもなく、必要な審理を尽くしていないことは明らかというべきである。原審での検察官による証拠請求の内容にかんがみると、原判決が検討したG電話とI電話の重なり合いあるいはその順序については、通話相手のG及びIを証人として取り調べ、あわせて両電話の時刻・時間帯に関連した各証人を取り調べることにより、もっと直接的な吟味を加えることが可能になると考えられる。そして、H供述及びH手帳は、これらの証拠と総合して評価・判断をなすのが相当というべきである。さらに、必要に応じて、その他のE電話、F電話の通話相手についても、本件各電話の順序を確定するための証人として取り調べることの要否を検討して然るべきと思われる。原審裁判所は、検察官によるこれらの証拠調べ請求をことごとく却下し、僅かにH供述及びH手帳のみによって本件各電話の順序を判断しようとし、H供述及びH手帳に相応の証拠価値があることを看過して性急にそれを否定したうえで、検察官主張の証明なしとの結論を導き出したものということができ、この点で、原判決には、審理不尽に基づく事実誤認があるといわなければならない。

三L電話の時刻(公訴事実第一の二)について

1  所論は、Lが被告人Aに電話をした時刻が午後八時前であることは客観的真実で、Lの証言によりこれを認めることができるのに、原判決は、L証言の本質部分の信用性には重要な影響を及ぼすべくもない同証言中の個々の表現内容の違いやLの捜査段階の供述調書との些細な食い違いを取り上げて、L証言の信用性を否定した不当なものである、と主張する。あわせて所論は、原審裁判所は検察官がL証言の信用性を補強するために申請したN、Oの各証人尋問を却下し、L証言の信用性について十分な審理を尽くさないまま、右の不当な判断に至ったもので、証拠の取捨選択を誤ったことが明らかである、とも主張する。

2  そこで、所論にかんがみ記録を調査して検討するのに、証人Lは、甲山学園に電話をした時刻が午後七時四〇分ごろから五〇分ごろまでの間だったと供述し、その理由として、(a)腕時計で七時半を確認してから一〇分ぐらいして電話をかけた、(b)午後八時ごろ保安係員が回って来るのでそれまでに帰ろうと思って作業をしていたが、その前に電話をしようという気持ちで電話を入れた、そして電話の後一〇分ほど作業をしてそれから帰った、(c)Aとの待合わせ時刻を午後八時四五分に決めたが、そのとき腕時計を見て一時間程度はまだあるんだなという感じを持った、との三点をあげている。これらの内容は具体的で自然かつ合理的であり、証人Lが利害関係のない立場にあることも勘案すると、L証言の信用性は高いというべきである。

原判決は、同様の理由でL証言につき「信ぴょう性に富むもの」を一応肯定しながら、他方でその信用性に疑いを持たざるを得ない難点が少なくないと述べ、結論として「同証言をそのまま安易に措信することは危険である」との判断を導いている。原判決のあげる難点は、①電話の時刻がL証言どおりならば、当日午後七時四〇分ごろあったG電話と重なり合ってしまう、②待合わせ時刻を決めた際「まだ一時間ほど時間があるなという感じを持った」と証言しながら、他方で「早く来るんだなと感じた」旨証言しており、看過できない矛盾がある、③二回にわたる自動車走行実験の結果では、甲山学園から待合わせ場所までの所要時間が三三ないし三四分となっており、L証言を前提とした所要時間との齟齬は決定的である、④Lの捜査段階における「待合わせ時刻を決めたときには時計を見ていない」「園長先生はずいぶん早く来るんやなと思った」等の供述は、証言の基本的な内容と食い違っている、⑤L供述は捜査・公判を通じて多くの点で変遷し安定性が乏しい、の五点であるが、以下に述べるとおり、いずれもL証言の全体的な信用性に影響を与える事情とまではいい難い。

初めに、①のG電話との重なり合いの点は、特に(a)の、腕時計で七時半を確認してから一〇分ぐらいして電話をかけたという事項と関連するが、L証言を全体としてみると、同人が電話をした時刻につき午後七時四〇分ごろと断言するものでなく午後七時五〇分ごろまでの幅を持った時間帯を供述していると目し得るから、G電話と重なると断定するのは相当でない。むしろ、Lは、(a)の事項を捜査段階から一貫して述べていたことが窺われ、このことは、電話の時刻に関するL証言の信用性を肯定する方向に働く極めて有力な事情ということができる。

次いで、(b)の事項と関連する点をみると、⑤のL供述が変遷し安定性に欠けると指摘されている諸点の多くがこれに当たると考えられる。原判決は、L証言では、事務所から退出する時刻につき、一方では午後八時ごろ帰るのがほぼ固定した習わしのように供述しているのに対し、他方ではもっと遅くなる場合もあった旨の供述もあり、安定性を欠く面があること、また、L証言では保安係員巡回への気遣いが強調されているが、これは昭和五二年段階の捜査官の事情聴取で初めて現れたものであること、をそれぞれ指摘している。これらは、(b)の事項のうち、事務所から退出する時刻及びその理由付けに関する部分の信用性を論難するものであるが、前者の退出時刻の点については、L証言を通覧すると、通常は午後八時ごろに帰ることが多くそれより遅くなることも時にはあったという点で一貫しており、安定性を欠くとの批判は当たらない。また、後者の保安係員巡回への気遣いの点については、なるほど証言と同旨の内容は昭和五二年段階の事情聴取で現れ、昭和四九年段階では午後八時ごろにシャッターが閉まることが退出の理由付けとして述べられていたと窺われることに徴すると、初期供述からの変遷があると一応認めることができる。しかしながら、シャッターの閉鎖も保安係員の巡回に際して行われる旨Lが理解していたと認められることに照らすと、シャッター閉鎖への配慮と保安係員巡回への気遣いとは、異質の事柄ではなく、むしろ相通じるものであり、さして大きな変遷とはいえない。加えて、保安係員巡回への気遣いということ自体は午後八時ごろの退出の理由付けとして自然かつ合理的であることも考えあわせると、原判決のこの点での批判もそれほど説得力があるとは考えられない。さらに、原判決は、L証言では電話の後一〇分ほど作業をしてから退出した旨述べているが、昭和四九年四月当時の供述では何分ぐらいして帰宅したか詳しく覚えていない旨捜査官に答えており、また、証言でも一〇分ほどの作業内容等につき記憶の喚起をなし得ないとするなど、記憶喚起の経過が不統一である、と述べて、(b)の事項のうち電話後一〇分間ほど作業したという点の信用性を論難する。しかしながら、L証言は要するに、電話後少し作業をしてから退出した、今思うと作業時間は一〇分ぐらいだった、と述べるもので、同人が昭和四九年四月段階でも「電話をしてから事務をちょっとした」と述べていたと窺われることとも符合しており、電話後すぐには帰らずしばらく作業をしたという点では供述は一貫している。また、作業内容等につき記憶を喚起できないという点については、同人の仕事がしおり折り等の雑用的なものであったことからするとそれも十分あり得ることで、記憶喚起の経過が不統一であると批判するのは大げさ過ぎる。原判決の論難はいずれも当たらない。こうしてみると、(b)の事項についても格別不審な点は見当たらず、このことは、(a)の事項と同様に、電話の時刻に関するL証言の信用性を肯定する方向に働く有力な事情というべきである。

最後の問題は、(c)の事項すなわち待合わせ時刻までまだ一時間程度はあるんだなと感じた旨の供述部分に関連する、原判決指摘の②ないし④の各点である。まず、②の「まだ一時間ほど時間があるなという感じ」と「早く来るんだなという感じ」とが矛盾するとの点であるが、確かに、Lは甲山学園から待合わせ場所の新聞会館まで来るのに一時間ぐらいかかると考えていた旨証言しているのであるから、「早く来るんだな」ということは一時間より短い時間でAが来ると思ったということになり、先の「まだ一時間ほどある」という感覚との齟齬が生じる。④で指摘されているように、昭和四九年四月段階のLの供述調書には「ずいぶん早く来るんやなと思った」旨の記載があることが窺われ、その場合には右の齟齬はより増大する。もっとも、L証言は、「(甲山学園から待合わせ場所まで来るのにかかる)一時間というのは一時間ちょっと超えるという意味も入っている」と述べており、これに、昭和五二年段階の供述調書には「間に合うかなという感じを持った」旨の記載があると窺われることをもあわせると、「一時間以上かかると思われるのにそれより早く来れるんだなとの感じ」を抱いたのであるとの理解も一応は可能である。さらに、Lの捜査段階の供述調書には、前記(a)及び(b)の事項に沿う供述記載も併存していたと窺われるところ、両事項に関する供述の信用性が高いと考えられることは前述のとおりであり、「ずいぶん早く来るんやなと思った」旨の主観的印象の供述記載によって右の信用性が否定されるものではないというべきである。原判決の②の批判は必ずしも当を得たものとはいい難い。次に、④の腕時計を見たか否かに関しL証言と同人の捜査段階での供述とが食い違っているとの点については、L証言は「ちらっと見ただけで、はっきりと時間はみていない」と述べており、時刻を特定して銘記するような見方ではなかったと目せることに照らすと、食い違いとしてことさら取り上げるべきほどのものとは考えられない。残るは、③の走行実験による所要時間三三ないし三四分との齟齬をいう点である。確かに、L証言による一時間ほど(午後七時五〇分を前提にすると五五分間)との差異はかなり大きいといえるが、被告人Aが電話を終えてから車で出発するまでにかかった時間を差し引く必要があるうえ、そのときどきの運転方法や交通量・道路状況等により走行時間に相当程度の差異が生じ得ることに思いを致せば、齟齬が「決定的」であるとの原判決の指摘は過大な評価といわなければならない。なお、L証言は、「電話を終えてから一五分ぐらい後に事務所を出て、五分か一〇分で新聞会館に到着し、時間潰しのために同館九階のギャラリーで展示物を午後八時四〇分まで見た」旨述べており、その内容は自然で不審な点はなく、このような余裕のある時間の過ごし方は、(c)の事項を補強する事情ということができる。

以上要するに、原判決がL証言の信用性を論難する各点のうち、(a)及び(b)の事項に関連するものはほとんど失当であり、また、(c)の事項に関連するものは、一概に理由なしとはいい難いが、これをもってL証言の信用性に影響を与えるものとするには疑問があるというべきである。やや詳しく見るならば、(c)の事項への論難は、待ち時間がL証言の述べる「一時間ほど」よりもかなり短かったということを示唆するもので、遡って(a)及び(b)の事項すなわち電話の直前直後の状況に関するL証言の信用性をも論難するという構造にあるが、(c)の事項に対する論難自体それほど説得力があるとはいえないし、(a)及び(b)の各事項に関するL証言の信用性の高さをも総合して考慮すると、結論的にL証言を措信することの危険性を強調する原判決の判断には大いに疑問があるといわざるを得ない。原判決は、L証言及びその尋問から窺われる同人の捜査段階の供述につき、その内部的な食い違いや変遷を取り上げることに専心する余り、これらを過大に評価して、同証言の全体的な信用性の判断を誤った疑いが強いといわなければならない。

3  ところで、L証言を外部から検討する証拠としては、前記走行実験の結果があるが、それ以外にも、L電話の当時同人と同室していたとされるNや保安係員であるOの各証人尋問を検察官は申請していたものであり、これらの尋問を行うことにより、L証言の信用性につき外部的な裏付けがあるか否かを検討することが可能だったと窺うことができる。また、本項のL電話の時刻は、第二項で述べたG電話やI電話等の順序及び時間帯とも密接に関連しており、第二項に関する審理を尽くしたうえで、これをも踏まえて本項の判断をなすのが相当というべきである。結局、原判決は、L証言の信用性の判断を誤った疑いがあることに加えて、審理不尽があり、これらに基づきL電話の時刻に関する事実を誤認するに至ったものといわざるを得ない。

四被告人Aの国賠証言の主観的虚偽性及び偽証の犯意について

1  所論は、被告人Aにつき主観的虚偽性及び偽証の犯意が認められることは、同人がHのアリバイ工作に同調する態度を示していたことや被告人Aの自白調書が存することなどから明らかであるのに、原判決は、①被告人AがHのアリバイ工作に同調していたとはいえないこと、②L電話の時刻及び電話の順序に関する被告人Aの記憶喚起の過程に特段不自然なところがないこと、③被告人Aの自白調書の信用性を肯定することができないこと、を理由にあげて、被告人Aの国賠証言が記憶に反する虚偽の証言であると断じることはできないとの結論を下しているが、原判決の右①ないし③の判断はいずも誤っている、と主張する。

そこで、所論にかんがみ記録を調査して検討するのに、①のHのアリバイ工作への同調の点は、偽証の動機あるいは記憶喚起の過程の自然・不自然性に関わる問題であると思われるので、まずこの点を検討し、次いで、最重要の論点と思われる③の自白調書の信用性の点につき検討を加え、②の記憶喚起の過程の自然・不自然性の点は、適宜③の検討の中であわせ論じることとする。

2  右①のHのアリバイ工作への同調の点につき、原判決は、被告人AにおいてCが逮捕された直後の一時期Hの主張や態度に同調したと見られるような言動に出ていた事実は否定し難いとしながら、その後間もなくしてHのC救援活動の進め方を警戒しHとは一定の距離を置く方針を自発的に選択した経緯が認められるとして、Hのアリバイ工作に同調したとの検察官の主張を全面的に肯定することは到底許されないとの結論を導いている。

まず、被告人AがC逮捕の直後Hに同調的な言動をなしていたとの右認定は、原判決がその根拠として掲げる諸事情も含めて、概ね相当としてこれを是認し得る(もっとも、右諸事情のほか、被告人AにおいてHが昭和四九年四月八日付で作成した兵庫県警察本部長宛抗議文に甲山学園長名を記載し同学園の印を押捺した事実も含めて考えると、当初の被告人AのHに対する態度は「同調」よりも「追従」と評した方が適当といえる。)。次の、被告人Aが間もなくHの活動の進め方に警戒心を抱き同人と一定の距離を置くようになったとの右認定についても、原判決がその根拠として掲げる諸事情を含めて、ほぼ相当としてこれを是認することができる。ただ、被告人Aの態度変遷の根拠として原判決が掲げる諸事情は、いずれもCが逮捕後勾留されていた期間中の事柄であることに留意する必要がある。すなわち、原判決はC釈放(昭和四九年四月二八日)後の被告人Aの動向については何ら言及していないのであって、Hに警戒し距離を置くようになったとの被告人Aの態度が果たしてC釈放後も継続して維持されたか否かを更に検討する必要があるというべきである。

そこで検討するのに、被告人Aの原審公判供述及び検察官に対する昭和五三年三月一八日付(<書証番号略>)、同月一九日付(<書証番号略>)各供述調書、証人P及び同Qの各証言等によると、次の各事実を認めることができる。

ア  昭和四九年五月五日、甲山学園で保護者会が開かれ、席上Hが保護者らからC逮捕の際に「死んでもしゃべるな」と言ったことについて追及を受けた。被告人Aは、Hに代わって、「それは真実のことを言いなさいという意味で言ったのである」旨説明してその場を納めようとし、Hをかばう態度を示した。

イ  昭和四九年五月一五日、六甲学生センターで開かれた「Cさんの自由をとりもどす会」の会合に、被告人Aは参加し、同会の顧問になることを依頼された。同会の中心的推進役はHであって、Cの無罪や捜査の違法性を明らかにするために、国家賠償請求訴訟を提起することになった。そして、被告人Aは、その後、提訴に向けての弁護士団との打ち合わせ会等に、Hらとともに熱心に参加した。

ウ  なお、右訴訟の関係で上野勝弁護士ら数名の弁護士が代理人に選任されているが、C逮捕後同人の弁護人に選任された山内ら数名の弁護士は加わっていない。Hは、山内弁護士らから自己のC救援活動を行き過ぎとして批判されたこともあって、同弁護士らとそりが合わず、C勾留中に上野弁護士を被告人Aに紹介するなどして弁護人の交替を希望していた。また、被告人Aも、山内弁護士らが労働組合の依頼した弁護人だったこともあって早く手を切りたいという気持ちがあり、この点でHと気脈を通じていたことが窺われる。

エ  昭和四九年七月三〇日に、C及びHほか一名を原告とする国家賠償請求が提訴された。昭和五〇年一二月の第八回口頭弁論期日から昭和五一年一一月の第一六回口頭弁論期日にかけて、被告人A、H、被告人Bが、原告側証人または原告本人として順次法廷で供述し、いずれも、L電話が午後八時一五分ごろにありそれまでCが一緒に管理棟事務室に在室していた旨、Cのアリバイ主張に沿う供述をなした。

以上の諸事情に照らすと、被告人Aは、一旦はHを警戒して距離を置く態度をとったものの、C釈放後はHに同調してCのアリバイ等を立証するための活動に積極的に参加していったものと認められる。原判決は、C釈放後の被告人Aの動向を看過して、検察官の主張を排斥したものであり、その結論には多大の疑問があるといわなければならない。

3  次いで、前記③の、主観的虚偽性ないし偽証の犯意に関する被告人Aの自白調書の信用性について検討する。原判決及び所論は、L電話の時刻に関する自白と電話の順序に関する自白とに一応分けて論じているので、その順に考察していくこととする。

(一)  まず、L電話の時刻に関する自白としては、被告人Aの検察官に対する昭和五三年三月一六日付(<書証番号略>)供述調書が存し、同調書には、原判決が摘示するように「Lと待合わせ時刻を決めるとき、Hと一緒に自分の腕時計を見た。そのとき針が何時何分を指していたかという記憶は、当初からなく、国賠証言時においても喚起できなかった。ただ、昭和四九年六月の走行実験の結果に基づき、到着時刻の八時五〇分から計算して時計を見たのは八時一五分になるという理屈を頭の中でつけ、国賠証言では、この推論を自己が記憶として取り戻したかのように強調して表現してしまった」旨の供述記載がある。

原判決は、「認定事実」論として右自白調書の意義を検討し、「喚起された記憶」と一定の事実を基礎に推論された「認定事実」とはもともと区別が困難であり、客観的には後者であっても主観的には前者の場合のように意識することは通常人にとってむしろ自然なことといえる、と述べたうえで、本件でも被告人AにおいてL電話の時刻が八時一五分であったと考えたことにつき、仮に記憶を喚起していなかったとしても、国賠証言時の認識としては記憶を喚起できたと思っていたのではないかとの疑いを拭い切れない、と判示し、同人の自白調書は検察官の作文の香りが強くその信用性を肯定できないと結論付けている。

なるほど、「喚起された記憶」と「認定事実」との区別が困難であることは、一般論としてはこれを了承することができる。しかしながら、被告人Aにおいても認定事実を喚起できた記憶であるかのように主観的に認識していた疑いがあるとの原判決の判断には、以下に述べる理由から、にわかに左袒し難い。第一に、被告人Aは心理学の専門的学識を有する者であるから、両者の異同を十分に理解していたものと考えられ、実際に右自白調書の記載内容に徴しても、L電話の時刻が八時一五分であるというのは推論に過ぎず記憶として喚起されたものでないとの供述が、右理解の上に立ってなされたであろうことが、窺われるところである。第二に、仮にL電話の時刻が午後八時前であることが客観的真実として立証されたとするならば、そもそも、被告人Aにおいて、八時一五分にL電話があったとの虚偽の事柄を記憶として喚起した、あるいは喚起できたと思ったということ自体極めて疑わしいということにならざるを得ない。午後八時前というのが客観的真実であるならば、被告人Aは、走行実験の結果から推論した八時一五分という時刻が、まさに推論による「認定事実」に過ぎず「喚起された記憶」でないということを明確に識別できたものといわなければならないのである。第三に、原判決も認めるように、被告人Aは、少なくともC逮捕後しばらくの間、学園出発時刻についてはっきりした記憶がなく、午後八時ごろではないかと考えていたものであるところ、それにもかかわらず、甲山学園の会議の席上の発言やQの質問に対する回答では「午後八時一五分までCらと管理棟事務室に同室していた」旨述べて、Hのアリバイ主張に同調するかのごとき言辞に及んでいたものである。この事実に、前述のとおり、C釈放後被告人AがHに同調してCのアリバイ等を立証するための活動に積極的に参加していった事実をあわせ考えると、被告人Aの国賠証言も、L電話の時刻につきはっきりした記憶がないのにHに同調して午後八時一五分と断言した可能性があることは否定できない。そして、仮にL電話の時刻が午後八時前であることが客観的に立証されたならば、被告人A、H及び被告人Bの三名が国賠訴訟の口頭弁論期日で同一の虚偽事実を自己の記憶として供述したということになり、そうすると、被告人Aにおいて記憶がないのに断言したとの前記可能性はますます強まることとなる。

(二)  次に、電話の順序に関する自白としては、被告人Aの検察官に対する昭和五三年三月一六日付(<書証番号略>)供述調書が存し、同調書には、「記憶があるのは、L電話が一番後であったということと、E電話、F電話、大阪放送電話が一連の流れの順序になるということだけで、E電話等三本の電話とG電話との前後関係については、国賠証言時を含め、今日に至るまで記憶がはっきりしない。国賠証言では、Cの無実を強く訴えたいがために本来の記憶にないことを記憶があるかのように証言してしまった」旨の供述記載がある。

原判決は、被告人Aの原審公判供述等によれば、G電話と大阪放送関係の一連の電話の前後関係については曖昧な記憶しかなかったのが、退職後ゆっくりと落ち着いて考えていくうちに、G電話が先にあったとの記憶を喚起・形成したものと認める余地があることなどを指摘したうえ、右自白調書の存在を考慮に入れても、被告人Aの電話の順序に関する国賠証言が当時の記憶に反していたものと断定することはできない、と判示して、結論的に自白調書の信用性を否定するに至っている。

しかしながら、L電話の時刻に関する自白につき前述したところと同様に、仮にG電話が最初の電話でなかったことが客観的真実として立証されたならば、被告人Aにおいて同電話が最初にあったとの記憶を喚起・形成したということ自体不自然なことであると、まずはいうことができる。また、被告人Aの検察官に対する昭和四九年四月二八日付供述調書等によれば、電話の順序に関する同人の記憶は少なくともC釈放のころまでは曖昧だったと認め得るところ、原判決は、前記のように、同人が退職(同年五月五日)の後ゆっくりと記憶を喚起・形成していったというのであるが、C釈放後被告人AがHに同調してCのアリバイ等を立証するための活動に積極的に参加していった事実が認められることは前述したとおりであり、これに照らすと、「記憶喚起の過程には特段不自然なところがない」との原判決の判断には疑問がありたやすく賛同することができない。さらに、仮にG電話が最初の電話でないことが客観的に立証されたならば、被告人A及びHは国賠訴訟の口頭弁論期日でG電話が最初の電話である旨の虚偽事実を自己の記憶として揃って供述したということになり、この点からしても、被告人Aが国賠証言時に記憶を喚起していた可能性があるとの原判決の判断は支持し難い。

(三)  以上によれば、L電話の時刻及び電話の順序のいずれについても、主観的虚偽性ないし偽証の犯意に関する被告人Aの自白調書の信用性を否定した原判決の判断には、多大の疑問があるといわなければならない。

4  ところで、原判決は、電話の順序に関する偽証罪の成否に関連して、仮に検察官主張が客観的真実に符合したとしても、主観的虚偽性ないし偽証の犯意を認めるには合理的な疑いがあるので、客観的虚偽性が認められてもなお偽証罪は成立しない旨を判示している。しかしながら、客観的虚偽性が立証されたならば、それが主観的虚偽性ないし偽証の犯意を肯定する方向に大いに作用することは、L電話の時刻に関してのみならず電話の順序に関してもいえるものであることが、これまでの検討からして明らかであり、したがって、原判決の右判示は到底これを支持できない。原判決には、L電話の時刻及び電話の順序のいずれについても、客観的虚偽性に関し審理不尽とこれに基づく事実誤認があることは、第二、第三項で述べたとおりであるから、それは取りも直さず、本項の主観的虚偽性ないし偽証の犯意についての審理不尽・事実誤認をも招来することになるというべきである。

なお、原判決は、L電話の時刻に関する被告人Aの前記自白調書の信用性を否定する理由の一つとして、半ば絶望的な心理状態に追い込まれたすえ自供に至ったとの被告人の公判弁解は、取調べ当時の諸事情に照らすと、これを無碍に排斥できないということをあげている。右取調べの状況に関しては、担当検察官であった加納駿亮を証人として取り調べることにより、被告人の右公判弁解の当否につきより踏み込んだ検討を加えることが可能になると考えられ、また、同証人の尋問結果は、L電話の時刻のみならず電話の順序に関しても被告人Aの自白調書の信用性を全般的に判断するうえでの重要な証拠になると思われる。原審裁判所は、検察官による加納駿亮の証人申請を却下しているが、被告人Aの自白調書の信用性を正しく評価・判断するためには、取調べ状況についての事実取調べを尽くす必要があるというべきである。

五被告人Bの国賠証言の客観的虚偽性について

1  所論は、被告人Bが本件当夜の午後七時五〇分ごろから午後八時二〇分ごろまでの間若葉寮職員室にいたこと及び同所でQから聞いてDの行方不明の事実を知ったことが客観的真実であり、これらは証人R(以下、「R」という。)及び同Q(以下、「Q」という。)の各証言により認めることができるのに、原判決は、両証言の信用性を不当にも排斥し、他方で両証言と異なる内容の被告人Bの国賠証言の信用性を肯定したうえで、前記各事実を裏付ける証拠が不十分であるとの結論を導いたもので、その判断は恣意的・独善的であって到底容認できないものである、と主張する。

そこで、所論にかんがみ記録を調査して検討するのに、以下に述べるとおり、R証言及びQ証言の各信用性を排斥した原判決の判断には疑問があってこれを支持することが困難であり、また、原判決が被告人Bの国賠証言の信用性を肯定したことにも疑問があるというべきである。以下、R証言、Q証言、被告人Bの国賠証言の順に、それぞれの信用性を検討していくこととする。

2  証人Rは、「午後七時五〇分ごろ若葉寮職員室に赴き午後八時二〇分ごろ退室したが、その間被告人Bが終始一緒に在室していた。午後八時二〇分ごろ同職員室に顔を出したQから、Dの行方不明の事実を知らされた」旨証言するところ、その内容は具体的でしかも自然かつ合理的であり、同証人が被告人らと利害関係のないことも考えあわせると、R証言の信用性は高いというべきである。

原判決は、同様の理由でR証言につき「一見したところ信ぴょう性の高い供述証拠としての一般的な特徴を備えているように看取できる」と述べながら、他方で、同証人の捜査段階での供述と比較すると供述の変遷状況につき看過し難い点が存在するなどとして、「(R証言の)信ぴょう性には疑問の存することを否定できない」と結論付けている。すなわち、原判決は、R証言と同人の捜査段階の供述とを比較すると、①Rが若葉寮職員室に来た際既に被告人Bが在室していたか否か、②Qの来室とHの来室との時間的前後関係の二点で、供述の齟齬及び変遷があり、また、③R証言は、被告人BとRとが約三〇分も同室していたのにS子の捜索に関連した会話がなかったという点で不自然である、などの理由から、R証言の信用性に疑問があるとしている。しかしながら、次に検討するとおり、右の各点は、いずれもR証言の信用性を左右するに足りる事情とまではいい難い。

まず、①の点は、Rの昭和四九年四月一五日付の司法警察員及び検察官に対する各供述調書では、「私が職員室に来たときには誰もいなかったと思う。午後八時にMから電話があり通話していたとき、被告人Bが在室しているのに気が付いた」旨の供述記載となっており、R証言の「私が職員室に来たとき既に被告人Bが在室していた」旨の供述内容と相違していることを問題とする。R証言は、「職員室に来たとき既に被告人Bが在室していたことは当初から記憶としてあった」と述べたうえ、それにもかかわらず右調書のような記載になったことにつき、「警察官からBはいなかったのではないかと聞かれ、食い違いがあってもいけないし、しつこく聞かれるのもいやなので、午後八時にいたことは間違いないし、あとはぼかした方が無難と思った」ためであると説明する。原判決は、R証言がいうのとは逆の想定も可能である、すなわち職員室に行った際には被告人Bがいなかったと述べるRに対し捜査官において被告人Bがいたのではないかと質問したことも考えられないわけではない、と判示したうえ、「このような推測に基づいて供述の変遷理由を論ずるのは相当でない」として、R証言中の前記説明部分の信用性を否定している。しかしながら、右説明部分については、その内容自体とくに不自然な点はなく、加えて、Rは昭和四九年四月一五日当時甲山学園を退職して新しい職に就いたばかりの立場にあったもので、同人に旧職場の同僚への遠慮や捜査官による事情聴取のわずらわしさから逃れたいとの気持ちが強く働いたことは想像に難くないこと、右当時被告人Bは捜査官に対し「自分が若葉寮職員室に赴いた際に既にRが在室していた」旨供述していたことが窺われ、右供述を前提にして警察官がR証言にあるような質問を同人にすることは大いにあり得たと思われることをあわせ考慮すると、これを納得できないとして排斥するのは困難というべきである。なお、Rは昭和五一年の検察審査会における証言からR証言と同旨の供述をなすようになったことが窺えるところ、原判決は、甲山学園園児変死事件が検察審査会で取り上げられるに至った経緯等に照らすと、Rの右のような供述変遷の経過はR証言の信用性に疑問を抱かせる事情の一つである、と判示している。しかしながら、Rは、昭和五一年には新職場に落ち着き結婚もして旧同僚への気兼ねがなくなり、右事件での自己の供述の重要性を認識したうえで、逃避的ではなく責任ある供述をしようとの気持ちに立って検察審査会での証言に臨んだということも、十分に考えることができ、供述変遷の経過に合理性がないと一概には断定できない。

次に、②のQの来室とHの来室との時間的前後関係の点については、R証言では「Qが職員室に来てDの行方不明を告げたときには、Hも同室していて被告人Bと話をしていた」旨述べているのに対し、Rの昭和四九年四月一五日付の前記各供述調書では「若葉寮入り口辺りで『D来ていない』という女の先生の声が聞こえた後、間もなくしてHが来室した」旨の供述記載になっていることが問題とされる。R証言では、右調書のような記載になったことにつき、「女の先生ということでQの名前をぼかしたのは、後でQに確認したらはっきり覚えていないとの返事だったので、食い違いがいやでQの名前を出さなかった。また、警察官から女の人の声の後でHが入ってきたのでないかと質問されて、ぼかした方が無難かなと思い、多分ぼかしたと思う」旨の説明がなされている。このうち、Qの名前をぼかしたことについては、前述した旧職場の同僚への遠慮等の事情からして納得できないものではない。問題は、Hの来室がQの来室より前であると記憶していたのに後である旨「ぼかした」という点であるが、原判決は、警察官がRに対し前記のような質問をなしたということは疑わしいなどとして、R証言の右説明部分の信用性を論難する。しかしながら、Rの司法警察員に対する昭和四九年四月一五日付供述調書に添付された図面には、「H先生が来られた時はD君がいないかと言う声を聞いた前か後か覚えていません」との記載がなされており、これは、Rが自己の記憶に反するぼかしをなして調書本文の供述記載に至ったその中途の段階の心情を吐露したものであるとの理解も可能であり、右説明部分の信用性を一概に排斥することはできない。むしろ、後述するとおり、Q証言がQ来寮の際被告人BのみならずHも在室していたとの点でR証言と一致していることは、両者相まってHの来室が先であったことを強く推認させるものということができる。ところで、原判決は、前記前後関係についての供述変遷を一つの理由にして、R証言中の、Qが若葉寮職員室に来たとき被告人Bが在室していた旨の供述部分の信用性に対し疑問を呈するのであるが、これまで述べてきたところからすると右供述の変遷に合理性がないとは必ずしも断言できないし、さらに、Qが若葉寮職員室に来たとき被告人Bが在室していたということについて、Rが捜査当初から一貫した記憶を有していたことは、原判決も肯認するところであり、そもそも前記前後関係についての供述が変遷しているからといって、Q来室当時の被告人Bの在室に関する前記供述部分の信用性まで否定するのは、論理の飛躍があって不当であるといわなければならない。

最後の③の点は、R証言等によれば、当時Rは退職を間近に控えていたものであり若葉寮職員室で児童の行動記録を整理する作業に追われていたこと、同人と被告人Bとは格別親しい間柄ではなかったこと、それでもRは、忙しそうにしていた被告人Bに手伝いましょうかと声を掛けたり、M電話の際にその後もMが電話をする必要があるか否かについて同被告人と相談したりしたものであることなどの事情が認められ、これらに照らすと、右以外の会話がなされなかったとしても、別段不自然とはいえないというべきである。

3  証人Qは、「午後八時二〇分ごろ、若葉寮にDの所在を聞きに行き、職員室の中をのぞき込んだ。中には、被告人BとRがおり、また、被告人Bに向かい合う形でHがいた」旨証言するところ、原判決は、QがDの所在確認のため若葉寮に赴いた事実自体はR証言と照らしあわせると否定できないとしながら、Qが職員室内をのぞき込んで被告人Bを現認したという点については同証言を措信し難いとの判断を示している。原判決がその理由としてあげるのは、①Rは初期供述で来寮した女性がQであると明言しておらず、これにつきR証言では「Q供述との食い違いを避けるためにぼかした供述をした」との説明がなされているが、真実はQの顔を見なかったために「ぼかした」のではないかと疑われること、②QはDの所在に心当たりがないかどうかを聞き合わせる目的で若葉寮に赴いたというのであるから、果たして職員室内をのぞき込むなどの行為にまで出たか否か疑問があること、③Qがのぞき込んだ際のBの位置に関するQ証言とR証言が食い違っていること、の三点であるが、以下に検討するとおり、いずれもQ証言の信用性を左右する事情とはなし難い。

まず、②の点が、Q証言の信用性を同証言の内容自体に即して論ずるものであって、最も重要と思われるので、これからみていく。Q証言の大要は、「Dの所在を確認しかつその行方不明を他の職員に知らせるために、青葉寮を出て若葉寮に赴いた。玄関から入り、まず職員室の受付窓を開けて中の職員三名に声を掛け、次いで廊下側の仕切ドアを開けて廊下にいた職員二名に声を掛けた」というものであり、供述されているQの行動内容はその目的によく適合しておりかつ行動の流れも極めて自然なものといえるから、「果たして職員室内をのぞき込むなどの行為にまで出たか否か疑問がある」との原判決の判断は失当といわざるを得ない。

次に、③の点は、Q証言とR証言の内容的な齟齬を理由にQ証言の信用性を論難するものであるが、両証言は、Qがのぞき込んだ際の被告人B、R、Hの三名の位置関係についてほぼ一致した内容になっており、僅かに被告人B及びRの座っていた各机が直接隣り合わせになっていたか、一つ机を置いて隣り合わせになっていたかの些細な違いがあるに過ぎず、これをもって食い違いと評したうえ「Qののぞき込み」の事実を否定する理由とするのは、不当というほかない。

残る①の点は、直接にはR証言の信用性を論じるもので、そもそもこれによりQ証言の信用性が左右されるものかについては疑問なしとしない。ともあれ、R証言中の「Qの名前をぼかした」ことについての説明部分が、初期供述当時のRの置かれた状況を踏まえると納得できないものでないことは、R証言の信用性を検討した際に述べたとおりであって、原判決のこの点に関する論難も当たらない。

4  被告人Bは、国賠証言で、「午後七時半ごろから管理棟事務室に、C、H及びAと一緒にいた。午後八時一五分ごろAが同事務室を出たが、私はAが退出するまでの間とその直後との計二回若葉寮職員室に行ってすぐ戻っただけで、そのほかはずっと右事務室にいた」と供述し、また、「Aの退出後、若葉寮職員室に行って管理棟事務室に戻ってから間もなくして、同事務室の入り口付近で、女の人の声でDがいなくなったということを聞いた。その女の人の姿は見ていないが、多分Cだと思う」とも供述している。前者の証言部分は、被告人Bが午後七時五〇分ごろから午後八時二〇分ごろまで終始若葉寮職員室にいたか否かという論点に関わるものであるところ、原判決は、他の証拠関係に照らし被告人Bが管理棟事務室にいたという前提事実を疑わせるものはなく、逆に右時間帯に管理棟事務室にいたという被告人Bの供述は捜査当初から一貫していることが認められるとして、右証言部分の信用性を肯定できるとしている。また、後者の証言部分は、Qが若葉寮に来た際被告人Bが同寮職員室にいたか否かという論点に関わるものであるが、原判決は、Dの行方不明の事実を初めて知ったのが管理棟事務室にいるときであったとの点で被告人Bの供述は当初から一貫しており、その限度で右証言部分の信用性を肯定できるとしている。しかしながら、以下に述べるとおり、両証言部分はいずれもその信用性に疑問があるというべきである。

まず、前者の被告人Bの所在場所に関する証言部分に関し、問題とすべきは、被告人Aの退出の時刻が午後八時一五分ごろだったという点であるが、被告人Bは、国賠証言及び原審公判供述で、「L電話の最中、被告人Aの時計をのぞき込んだら八時一五分だった」旨その根拠を述べている。被告人Bは、右公判供述で、何故Aの時計をのぞき込んだかとの質問に対し、一方で八時四五分の約束時刻を聞いて不安に思ったからのぞき込んだと述べつつ、他方で時計をのぞいて八時一五分だったので不安に思ったとも述べており、その説明には釈然としないものがある。また、被告人Aの検察官に対する昭和五三年三月四日付(<書証番号略>)供述調書中には「Bが時計をのぞき込んだという記憶はない」との供述記載があり、これらをあわせ考慮すると、「八時一五分を被告人Aの時計で確認した」旨の右国賠証言・原審公判供述はにわかに措信し難く、ひいては、被告人Aの退出時刻が午後八時一五分だったという点についての右国賠証言の信用性には疑問が生じるというべきである。被告人Bの国賠証言で、本件の午後七時五〇分ごろから午後八時二〇分ごろまでの時間帯に同被告人が管理棟事務室にいたとすることの重要な支えが、この被告人Aの退出時刻であると考えられるだけに、右疑問はこれをたやすく看過することができない。そして、原判決の指摘する、管理棟事務室にいたとの被告人Bの供述が捜査当初から一貫しているということも、このL電話の時刻ないし被告人Aの退出時刻という点に即して見ると、被告人Bの昭和四九年四月段階の供述と国賠証言とでは大きな変遷がある。すなわち、被告人Bの司法警察員に対する昭和四九年四月二日付供述調書には、右各時刻が「午後八時にはまだ少し間があったころ」だった旨の供述記載があり、また、同被告人の検察官に対する同月二一日付及び同月二六日付各供述調書には、「L電話の後に若葉寮職員室に行ったらRがおりその時同人にMから電話があった」旨の供述記載(右M電話は午後八時ごろにあったと認められ、このことは取調べ当時被告人Bにおいて了知していたものと目せる)があるのであって、これらは、L電話の時刻ないし被告人Aの退出時刻が午後八時一五分ごろだったとの国賠証言とは著しく齟齬しているのである。なお、被告人Bは国賠証言で、「若葉寮職員室には二回出向いており、一回目は被告人Aの退出前にバナナ等の入った紙袋を取りに行き、そのときRが電話をしていた」旨供述し、原審公判供述では、「一回目の用事を思い出せず自信がなくなり警察官に二回行ったと言わなかったが、Cが逮捕された後の最後の検察官の取調べのときには荷物を取りに行ったことを思い出していた」旨弁解するところ、右用事の内容や事後に管理棟事務室から紙袋を持ち出した状況として被告人Bが原審公判で供述するところに照らすと、それを容易に思い出せなかったというのは不自然であるうえ、司法警察員作成の昭和四九年六月二〇日付及び同年七月一〇日付各捜査復命書によれば、被告人Bが、同年六月下旬から七月初めごろにかけてなされた数回の警察官による取調べにおいて、右用事に言及した形跡は全く窺われないことからすると、右弁解をにわかに措信することはできない。ところで、さらに留意すべきなのは、L電話の時刻につき第三項で検討した点が、ここに直ちに関連してくるということである。すなわち、仮にL電話の時刻が午後八時前であったことが客観的に立証されたならば、同時刻に関する被告人Bの国賠証言の信用性が大きく損なわれることになるのは、明らかというべきなのである。

次に、後者の管理棟事務室の入り口付近でCと思われる女性の声でDの行方不明を聞いた旨の証言部分の信用性については、なるほど原判決のいうように管理棟事務室で聞き知ったということでは被告人Bの供述は当初から一貫しているが、D不明を知らせた人物については、最初はQと述べていたのが、CかQのいずれかと変わり、最終的にはCと供述するに至っており、この点で供述の変遷が著しく、しかも、被告人Bの原審公判供述によると、Cが事務室に入って来て極めて重大な事柄を告知したのにその顔や姿を見ることもしなかったというのであり、この点は不自然との感が否めない。そうすると、原判決のように、管理棟事務室においてDの行方不明を聞き知ったとする供述自体の信ぴょう性は動かないと断言することには、容易に賛同できないといわざるを得ない。

5  以上によれば、原判決が、一方でR証言及びQ証言の各信用性を排斥し、他方で被告人Bの国賠証言の信用性を積極的に評価して、被告人Bの所在場所やD不明の聞知状況につき検察官が客観的真実だと主張する事実を肯認するに足りる証拠がないと結論付けたことには、多大の疑問がある。原判決は、R証言、Q証言、被告人Bの国賠証言の各信用性についての判断をいずれも誤った疑いが強いというべきである。

ところで、被告人Bの国賠証言の信用性判断に、第三項で検討したL電話の時刻の点が直ちに関連してくることは前述したとおりであるが、L電話の時刻の点は、R証言やQ証言の各信用性にも大きな関わりを持つものと考えられる。すなわち、L電話の時刻及びこれに直結すると推認される被告人Aの学園出発時刻の如何(午後八時一五分ごろか午後八時前か)は、被告人Bが午後七時五〇分ごろから若葉寮職員室にいたとするR証言のみならず、午後八時二〇分ごろ若葉寮職員室をのぞいたとするQ証言(その前の午後八時七、八分ごろグラウンド上でCと出会ったとも述べる)についても、その信用性に重要な影響を与えるものといえるのである。したがって、本項の被告人Bの国賠証言の客観的虚偽性を判断するにあたっては、第三項のL電話の時刻に関する検討結果を踏まえたうえで、R証言、Q証言及び被告人Bの供述の各信用性を更に検討する必要があるというべきである。そうすると、第三項で述べたL電話の時刻の点での審理不尽は、本項の審理不尽をも招来することとなり、結局、本項についても原判決には、前述のR証言等の信用性判断を誤った疑いに加えて審理不尽があり、これらに基づく事実誤認が存するといわざるを得ない。

六被告人Bの国賠証言の主観的虚偽性及び偽証の犯意について

1  所論は、被告人Bの供述状況やHに同調してCのアリバイを主張しようとした同被告人の態度からして、同被告人につき主観的虚偽性及び偽証の犯意は十分に認められるのに、原判決は、被告人Bの供述の一貫性のみに目を奪われた結果右主観的虚偽性等を否定するという誤った判断に至ったものである。と主張する。

2  そこで、所論にかんがみ記録を調査して検討するのに、原判決は、被告人Bが、午後七時五〇分ごろから午後八時二〇分ごろまでの時間帯に管理棟事務室にいたという記憶を当初から有していたこと、また、同所でDの行方不明の事実を聞き知ったと当初から一貫して述べていることを理由に、被告人Bの国賠証言に主観的虚偽性はなく、偽証の犯意を云々する余地もない、との結論を導いているが、原判決の判断には以下に述べるような疑問がある。

第一に、第五項で被告人Bの国賠証言の信用性に関し述べたように、右時間帯に管理棟事務室にいたという国賠証言はL電話の時刻が午後八時一五分であったことが重要な支えになっているところ、「八時一五分を被告人Aの時計で確認した」旨の被告人Bの国賠証言・原審公判供述はにわかに措信し難いうえ、L電話の時刻に関する被告人Bの供述は昭和四九年四月段階と国賠証言とでは大きな齟齬・変遷があることなどからして、国賠証言中のL電話の時刻に関する供述部分ひいては前記時間帯に管理棟事務室にいたとの供述部分の信用性に疑問が生じるといえる。また、管理棟事務室でDの行方不明を聞き知ったとの国賠証言も、聞いた相手方についての被告人Bの供述の変遷が著しいことなどからして、その信用性に疑問がないとはいい難い。そうすると、被告人Bが国賠証言時に、前記時間帯に管理棟事務室にいた、あるいは、同所でDの行方不明を聞き知った、との記憶を有していたという点も、疑わしくなるといわざるを得ない。

第二に、第四項において被告人Aの国賠証言の主観的虚偽性等に関し述べたのと同様のことであるが、仮にL電話の時刻が午後八時前であることが客観的真実として立証されたならば、被告人Bは、H及び被告人Aと揃って国賠訴訟の口頭弁論期日で同一の虚偽事実を自己の記憶として供述したということになる。これに加えて、被告人Bの原審公判供述等によれば、被告人Bは、Cの釈放後、Hが中心的な推進役となっていた「Cさんの自由をとりもどす会」に加わり、国家賠償請求訴訟の提起に向けての弁護士団との打合わせ会等に参加していた事実が認められることをあわせ考慮すると、被告人Bが国賠証言でHらに同調して自己の記憶に反する供述に及んだ可能性は否定し難いところになるというべきである。

第三に、仮に第五項の被告人Bの国賠証言の客観的虚偽性が立証されたなら、すなわち、被告人Bは前記時間帯に若葉寮職員室におり、同所でQからDの行方不明を聞き知った、との事実が客観的真実として認められたならば、被告人Bの国賠証言の内容は右事実とは明白に相違しており、これを単なる思いこみあるいは記憶違いとするのには、かなり無理があるというべきであり、国賠証言の主観的虚偽性ないし偽証の犯意を推認する方向に強く働くことは明らかである。

3  以上によれば、被告人Bの国賠証言の主観的虚偽性及び偽証の犯意を否定した原判決の判断には、にわかに左袒し難い。原判決は、被告人Bの国賠証言につき客観的虚偽性がないことを前提としたうえで、主観的虚偽性等につき検討を加えるとしているが、右前提に疑問があること及びそれが変われば主観的虚偽性等に関する結論も異なってくることは、右に述べたとおりである。第五項の結論は、被告人Bの国賠証言の客観的虚偽性に関し原判決には証拠の評価の誤り及び審理不尽に基づく事実誤認が存するというものであったが、本項の結論も同じこととなる。

七結論(破棄差戻し)

以上の次第であるから、原判決は、被告人両名の各国賠証言につき、客観的虚偽性及び主観的虚偽性・偽証の犯意のいずれの点においても、取調べ済み証拠の評価を誤った疑いが強く、かつ、取り調べるべき証拠を取り調べなかったという審理不尽が直接または間接に介在しており、これらが重なった結果、各公訴事実の立証が不十分である旨事実を誤認するに至ったものというべきである。そして、その誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、原判決は破棄を免れない。論旨は理由がある。

よって、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄したうえ、本件につき更に審理を尽くさせるため、同法四〇〇条本文により本件を原裁判所である神戸地方裁判所に差し戻すこととし、主文のとおり判決する。

(裁判官石井一正 裁判官飯田喜信裁判長裁判官池田良兼は転補のため署名押印することができない。裁判官石井一正)

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